日比谷公園「本多の首かけ銀杏」<都市民俗景観としての巨樹>
2019.10.25

民俗学者の野本寛一氏は、巨木にまつわる「樹霊」や「木魂」を訪ね歩いて、わが国の「民俗的景観」の豊かさを強調しておられる。がしかしその一方で現代の環境変化が、そうした「景観民俗」を喪失しつつある懸念をも指摘している。
このような状況は日本の近代化以後加速し、識者らの働きかけで「史蹟名勝天然記念物保存法」(大正8年)制定につながる。
巨木、巨樹が日本中のまちやむらで尊重されてきたのは、漁村における当て木のように帰帆の目印として生命にかかわるものであったり、降神や依代の木として、又神意を慰める芸能を奉じる舞台であったり、福井県若狭地方に伝わる常乙女八百比丘尼(とこおとめやおびくに)の椿の育樹のように植物資源の恩恵享受を誰もが感謝していたからである。
私は造園家であり日比谷公園史の研究者でもあるので、以上に加えて近代都市での巨樹物語をご紹介し、都市民俗景観としての巨樹というもうひとつ別の面があったことを伝えたい。
日本初の洋風公園として、練兵場跡に日比谷公園が計画された。何案も図面(プラン)が出されたが東京市参事会は了承せず、最後にドイツ帰朝間もない林学博士本多静六の設計を採択、明治36年に開園した。敷地は元々日比谷入江の埋立地で地下水位が高く植栽不適地、しかも予算も少なく本多博士の関与する帝大演習林から苗木を入手したほど。開園時「霍乱(かくらん)(日射病)公園」と皮肉られる始末であった。
本多博士が公園にシンボルツリーとなる巨樹をなんとしても欲しかったことは想像に難くない。
丁度明治34年、市区改正により日比谷通りが幅24間に拡張、交差点近くにあった大銀杏はあわや切倒されて薪(まき)になる運命だった。それを救ったのが本多博士の熱意であったと、公園史家前島康彦が綴っている。
博士は何んとか助けたいと思い立ち、東京市参事会議長星亨に面会し伐採中止方を懇請、移植は自分が引受けると申出た。星議長は、大木専門の植木職さえサジを投げたもの、いかに林学の専門家であっても無理では?と容易に承諾しない。博士も負けず「一尺大のハンコを押して保証する」、議長「ハンコだけでは駄目」、博士「では私の首をかけよう」、議長「それほどまでいうならやって見給え」となる。
大銀杏の位置は今の朝日生命館の角辺り。本多博士の指揮で、現地から公園内へ450メートル、レールを引き25日間かかって移植を完了。

いまも日比谷公園のほぼ中央、松本楼近くに聳え立つ。日比谷見附の江戸何百年間、そして明治の洋風公園150年の数百年の歴史の証言者、都市民俗景観木として健在である。その間、高射砲の射程にはいると樹冠を伐られたり、学生運動激化の昭和46年に焼失した松本楼の火に半面が焼けただれた大銀杏であるが、今は再生し元気に日比谷公園の象徴木として親しまれている。
※本巨樹は、過去のコラム「首賭けイチョウ」(尾川 俊宏さん 全国巨樹・巨木林の会会員)でも紹介されています。ぜひ、こちらもご覧ください。

幹周り | 650cm |
---|---|
樹高 | 約20m |
樹齢 | 推定350年 |
所在地 | 東京都千代田区 日比谷公園内 |
交通 | 地下鉄日比谷線「日比谷」下車、徒歩2分 |
著者 | 進士五十八(福井県立大学長・造園家) |